志願して旧日本陸軍の秘密戦研究施設「登戸研究所」で働いた。当時まだ16歳。働き始めの仕事は旋盤工だったが、ある時から同世代の少年たちと特別なミッションを任された。「風船爆弾」の試験飛行だった。
「体が丈夫なやつ6人が千葉の一宮海岸に集められてね。でっかい風船を砂浜まで運んで、膨らませて。そいつをアメリカまで飛ばすんだって言われてね」
化学兵器や偽札などと同様、風船爆弾は、登戸研究所で研究開発された日本陸軍の秘密兵器だった。「兵器」と言っても、和紙にコンニャクを塗り付けて仕立てた直径約10mの風船に、爆弾を仕込んだものだ。1944年11月から45年4月まで、計9300発をアメリカに向けて飛ばしたと言われている。
小川さんたちは、その巨大風船が太平洋を渡りアメリカに到達するのかどうかを調べる「試験チーム」だった。車で運ばれてくる風船を数人がかりで砂浜まで運び、ボンベを使って膨らませ、はしごに乗って穴がないかどうかを点検。「穴一つ見つけるとサツマイモ1本もらえたよ。あれは愉快だったな」。1日に飛ばした風船は4個から5個程度。風船はぐんぐん高度を上げ、太平洋へと向かっていった。
風船がアメリカに到着したことが確認されると、軍の幹部が海岸の街にやってきた。旅館の一室で幹部は言った。「風船爆弾は、わが国がアメリカを攻撃できる唯一の兵器だ」。大人たちは祝杯を挙げたが、「こんなもんで勝てるわけがねえ」と思ったという。「それから終戦まで、あっという間だったな」
終戦の1週間ほど前、研究所では「証拠隠滅命令」を受けて大忙しだった。作業に追われながら「日本は負けたんだな」と確信したという。
敗戦の年の12月、フィリピンなど熾烈(しれつ)な戦地を転戦した小川家の長男が復員した。やせ細り、ひどい身なりで自宅に現れた時、家族も「どこの乞食だ」と気付かないほどの形相だった。当時の兄の姿を思うたび、「涙が出るんだよ」と言葉を詰まらせる。「兄貴は戦争のことをほとんど話さなかった。戦争なんて、二度とやっちゃいけねえよ」
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今年で戦後80年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。
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